鉛温泉の由来
今から約500年前、当温泉主藤井家の遠祖が高倉山麓に於いて薪樵の折白猿が岩窟の中より出で桂の木の根元から湧出する泉で手足の傷を癒して居るを発見、これが温泉の湧出であることを知り後、嘉吉3年の頃小屋を建てて一族が天然風呂として用いたと伝えられている。
因に藤井家の遠祖は稗貫城主、藤原千夜丸の三男業忠公が円満寺膝立村を賜り膝立蔵人と名乗り其の子膝立弾正輝忠公(後の花巻安浄寺の開祖)の郎党で輝忠公>延享12年江刺勢と私斗し利非ずして当鉛村に敗走来り寺小屋を開塾し、またその郎党は附近の林野を開拓し木樵百姓等に変じて世を忍ぶ生活を営んでいたものという。
其の後宝暦年間(1751年〜1763年)子孫の三右衛門が大衆の浴場となすべく安浄寺住僧のはからいにて役司の許しを得当時の大飢饉震災の苦難を克服し天明6年(1786)子三之助の代となり初めて長屋を建てて温泉旅館業を開始せしという。これが即ち薬泉霊場として世に名声の高い>鉛温泉天然風呂「桂の湯」別名「白猿の湯」の由来である。
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