石鳥谷と宮沢賢治
石鳥谷町における宮沢賢治(1896〜1933)とのゆかりは、大正七年(1918)のこと、稗貫郡役所から盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)へ依頼があった、「稗貫郡地質及土性調査」に従事したことにはじまっている。
すなわち、関豊太郎教授支持のもと、神野幾馬・小泉多三郎・両教授らと共に行った賢治(実験補助嘱託)は、ほとんど単独で大正7年4月10日から行動を起こしている。
5月1日にはすでに石鳥谷区域の山間調査を終わらせ、ひどい雨でずぶ濡れとなった賢治は、その夜のこと
大瀬川小学校長・牛崎操城の家に泊めてもらう親切を受けている。
さらにその翌日からは、葛丸川沿いにまだ雪のある奥地の山中を三日間も野宿しながら、激しい熱意に燃えた調査に没頭するほどだった。それは断続して炎暑の夏にまでおよんだ。
童話「楢ノ木大学士の野宿」および、その初期形の未完作品「青木大学士の野宿」は、そうした調査行の体験により、葛丸川源流地点に実在する、青ノ木森(831m)・塚瀬森(892m)・権現森(776m)・諸倉山(714m)の山々をモデルとして、のちに作品化したものである。
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また、調査のまっさい中に、現地での感慨として詠まれたのが、短歌作品の「北の又」「鶯沢」「葛丸」の連作である。
さらに、詩作品には、昭和3年(1928)3月15日より一週間におよび、石鳥谷町好地字塚根の民家を借りて、賢治の出張を得て「石鳥谷肥料相談所」が開設された折に、
町の風景を描いた「三月」
がある。賢治の教え子たちに懇請されて行われたその肥料相談は、寒冷地農業に苦しむ農民たちへの大きなみちびきと力となった。
そうしたゆかりから注目されることは、賢治生涯につらぬかれる農民への献身の第一歩がそこに見出され、美しいこの地の自然との交感は また、賢治火山童話の始源地であることが銘記されることである。
賢治没後60年を記念し、この地に短歌「葛丸」の歌碑を建立してその詩情に心傾けると、石鳥谷の自然と町と訪れる人々が交響するえにしが谺する。それは、人々に幸せな未来感をあふれさせ、美しい詞景や銀河を望む大きな世界への感動をいっそうつのさせてやまない。
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〈新〉校本宮沢賢治全集(第9巻)で読めます。
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