宮沢賢治が一泊したゆかりの跡地
大正7年(1918)3月、盛岡高等麗林本科を卒業し、研究生として残っだ賢治のもっとも重要なことは、稗貫郡の士性調査であった。
それは、当時稗貫郡郡長であった葛弘氏(盛岡の人)が農業の振興の基礎になる士地の性質を調べ、農民が自分の耕地条件をよく知り適種適肥、自力自成、安心して農業を営める様にさせるために行った土性調査である。
この調査を郡役所から依頼されたのが、土壌学の権威である関豊太郎博士、助教授の神野幾馬、小泉多三郎、それに賢治であった。
同年5月1日(水)、当時の大瀬川小学校の校キ官舎がこの地にあり、時の牛崎操城校長(宮野目出身)の好意によって、賢治が一泊した。
このことを、同年5月2日の朝に、賢治は父政次郎氏宛に送ったハガキで、次の様に述べている。
「昨日は雨天に御座候処予定の調査を終へ昨夜は当小学校校長宅に泊り衣類も全く乾かし賢ひ候 本日は晴れさうにも見え候へども割沢迄川沿ひに調査致し明日晴天ならば割沢より山地を経て当所に出で帰花仕るべく候」
時に賢治22歳であった。
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