岩手県花巻市石鳥谷町の境塚(さかいづか)、菊池数馬の墓、江曽一里塚を写真や地図で紹介しています。
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境塚(さかいづか)、菊池数馬の墓、江曽一里塚
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境塚(さかいづか)▽
菊池数馬の墓▽
江曽一里塚▽
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境塚(さかいづか)
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地図/YahooMaps
石鳥谷町と紫波町との境付近、旧国道とバイパスとの北合流点より約300m南、道路の西側にあります。停車は可能。
境塚(さかいづか)
石島谷町と紫波町の境(藩制時代は好地村と犬縁村)は、稗貫、紫波両郡の境にもなっています。この境に沿つて北上川から東北本線間に九基の塚が築かれています。
塚は半壊したものも含め、北上川と旧国道間に六基、旧国道と鉄道間に三基あリます。塚はぽぼ完全なもので周囲が10〜13m、高さがが0.5mになっています。
安政四年(1857)に作成された「好地村(現、石鳥谷町好地)絵図によれば、当時は北上川と旧国道(奥州街道)間に八基、旧国道と古街道(旧奥州街道間)に四基、古街道と北寺林村間に四基、合計で十六基築かれていました。
塚が築かれた時期は明らかでありませんが、奥州街道の両側の塚が等間隔に築かれていることなどからみて、奥州街道ができてから築かれたものと考えられます。旧街道から新街道(奥州街道)への切り替えは、明暦四年(1658)といわれています。
好地、犬縁両村とも旧盛岡領であったことから、塚は郡境としてよりも村境としての性格をもって築かれたものと考えます。開拓等によってこうした塚がほとんど失われてしまった中で、塚は行政史や民俗学の上で大変重要なものとみられます。
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菊池数馬の墓
】
地図/YahooMaps
上記「境塚」と並んであります。
菊池数馬の墓
菊池数馬は、幼名を五郎といい、父の正宗は小田原の北条氏に仕えていましたが、小田原城の落城によって殉じ、数馬は豊臣秀吉の助命により奥州に落ちのび石鳥谷に住むようになりました。
五郎数馬は生来頑健勇猛で住居した石鳥谷を愛し、新田の開拓や道路、橋の新設、改良などに力を尽くし、また犬縁村との境界争いにしばしば活躍し、境の平安を守ったといわれています。
万治2年(1659)9月27日に75歳で亡くなりましたが、危篤の際に村内の若者を集め、「自分が境の鬼となって好地村を守るので境に埋めてほしい」と遺言しました。
遺言にもとづいて長坂の長根に葬り、それからはこの地を「数馬長根」といい、石鳥谷開発の恩人として崇敬されています。
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江曽一里塚
】
地図/YahooMaps
二枚橋交差点より、北に約2kmほどの道路東側、国道4号線沿いにあります。対の西側分はありません。直径約10m、高さ約3.0m。
江曽一里塚の由来
江曽一里塚の築造年代は南部第二十八代藩主重直公時代一の明暦4年(1658)頃と考定せられる。
慶長15年頃当地地方に初めて新に開通した当時の奥州道中(一名奥州街道)は、旧国道、弾正下りとも称し、この西約1kmの所を南北に通じている。
その奥州街道は当時の藩主南都重直公が領内の通行を便にするため屈曲を直し、勾配を綬めるなど改修を施した。その際当地方は、花巻北端で東に分岐し、紫波郡南端ぱ至る新街道の切替が施行せられた。
これが現在のこの国道四号線でその年代は明暦4年頃と考証せられ、この江曽一里塚もその当時の築造と思考する。
この一里塚は測量の結果略々築造当時の原形を止めているが、伝えられる頂上の植樹や、西側の一基は何時の時代にか消滅して現在はない。
地所の地名は塚根という字名として現在に至る。
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