境塚(さかいづか)
石鳥谷町と紫波町の境(藩制時代は好地村と犬縁村)は、稗貫、紫波両郡の境にもなっています。この境に沿つて北上川から東北本線間に九基の塚が築かれています。
塚は半壊したものも含め、北上川と旧国道間に六基、旧国道と鉄道間に三基あリます。塚はぽぼ完全なもので周囲が10〜13m、高さがが0.5mになっています。
安政四年(1857)に作成された「好地村(現、石鳥谷町好地)絵図によれば、当時は北上川と旧国道(奥州街道)間に八基、旧国道と古街道(旧奥州街道間)に四基、古街道と北寺林村間に四基、合計で十六基築かれていました。
塚が築かれた時期は明らかでありませんが、奥州街道の両側の塚が等間隔に築かれていることなどからみて、奥州街道ができてから築かれたものと考えられます。旧街道から新街道(奥州街道)への切り替えは、明暦四年(1658)といわれています。
好地、犬縁両村とも旧盛岡領であったことから、塚は郡境としてよりも村境としての性格をもって築かれたものと考えます。開拓等によってこうした塚がほとんど失われてしまった中で、塚は行政史や民俗学の上で大変重要なものとみられます。
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