古奥州街道 好地旧一里塚(こうちきゅういちりづか)
好地旧一里塚は、旧奥州道中(街道)の一里塚の一つです。
一里塚は、一里を36町(約3.93キロメートル)と定め、江戸日本橋を基点として一里ごとに築かれたもので、遠いい旅をする者にとっては、行程の道標にもなりました。
一里塚の築造は、慶長9年(1604年)徳川幕府の命により諸藩が、江戸日本橋を起点とし、東海・東山・北陸の三道中に、一里ごとに方5間(9メートル平方)の塚を道の両側に築き、その上に榎(または松)を橋えたのが通説になっています。南部落領内の奥州道中の一里塚の築造年については、慶長9年と慶長15年説とがあり、今のところどちらとも決めかねています。
なお、奥州道中は、明暦4年(1658年)に、ときの南部藩主重直が「御領内河辺御廻り、又は山坂多く不便」であるとして、曲折の多い道は直線に改修するとともに、山道は平坦部に移し、さらに道路幅員を一定にして造の左右両側の除地(通行する部分以外に確保した土地)をも設定し、並木を道の両側に植えさせたとあります。それが主に現在の国道4号にあたり、本町の中心地では県道中寺林犬渕線となっています。
好地旧一里塚は、その改修前の道中の一里塚で、塚の西側に南北にはしる溝帯が旧奥州街道の名残です。町内のこの道中では、このほかに南寺林のニツ森橋付近にも築かれていました。
ここから南へ一里、江戸から132番目は江曽一里塚です。
ここから東、江戸から133番目の旧国道沿いにあるのは新奥州街道 好地一里塚跡です。
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