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萬疊山(ばんじょうざん) 大興寺(だいこうじ)

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石鳥谷地図



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萬疊山 大興寺▽
稗貫氏の宝筐印塔▽
土仏観世音堂宇▽
御詠歌歌碑▽
早池峰山▽


萬疊山 大興寺(曹洞宗)】 
地図/YahooMaps
大興寺全景

 石鳥谷町の西端、県道13号線(盛岡和賀線)から約600m奥にあるお寺、大興寺には土仏土仏観世音堂宇や稗貫氏の宝筐印塔などがあります。また、早春には本堂脇にはミズバショウが多数咲き誇ります。門前に専用駐車場がありますが、見学する場合は一言許可を得てから行うようにしてください。
県道から約200m位置には 「松林寺地蔵堂」があります。

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水芭蕉

良寛詩碑

 参道には「いざ子ども 山べに行かむ 菫見に 明日さえ地ラバ 如何にとかせむ」と良寛の詩碑があります。



稗貫氏の宝筐印塔(ほうきょういんとう)町指定文化財】  稗貫氏の宝筐印塔

 菩提寺である本堂の裏山の墓地には、稗貫氏の宝筐印塔が屋根・説明板とともにあります。

稗貫氏の宝筐印塔(ほうきょういんとう)

稗貫氏の宝筐印塔  稗貫氏は、伝わる系図には数系あるが、その中で最も有力と思われる瀬川稗貫系図によれば、その始祖は藤原広重(始め為家と称す)である。
 広重の父は常陸国中村に居住していた山蔭氏の子孫鈴木人朝宗である。
 広重は朝宗の四男で、文治5年(1189)源頼朝の平泉藤原泰衡征討軍に従って戦功をたて、その恩賞として稗貫郡を賜り、これによって稗貫氏と称す。
 稗貫大和守広重は、建久年間(1190〜1199)稗貫郡に下向し、郡主となり、稗貫氏は凡そ400年間郡を統治す。
 下向の始めは、小瀬川舘といわれ、更に大瀬川舘に移ったこともあるという。後、十八(さかり)ヶ舘、更に鳥谷崎城に居城す。
 その間、鎌倉幕府北條氏の滅亡、南北朝足利氏の支配、応仁戦国の時代を経て、豊臣政権に服した稗貫広忠に至るまで郡主の座を維持した。
 大興寺は、稗貫氏末期の菩提寺で、この宝筐印塔は稗貫氏の墓碑であリ、建てた人、年代共不明であるが室町後期の建立と推定られる。
 高さ1.88m、最大幅0.6mで県内最大である。台石・基礎・屋根・相輪で成り立ち、宝珠・宝輪・隅飾も残っており、数少ない中世の稗貫氏の消息を今に伝える歴史的資料の一つである。

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(要調査:十八ヶ舘)


土仏観世音堂宇(どぶつかんぜおんどう)町指定文化財】 
地図/YahooMaps
稗貫氏の宝筐印塔

 本堂手前の右手の階段を上った高台には、土仏観世音堂宇が保護の為のとともにあります。

土仏観世音堂宇(どぶつかんぜおんどう)

土仏観世音堂宇参道  土仏観世音堂宇は、弘化3年(1846年)の建立といわれています。作者は、花巻市吹張の出身で、南部の名工といわれた高橋勘次郎親子です。高橋勘次郎家は初代から三代まで大工の棟梁でした。二代目は豊吉、三代目は豊太郎と称しました。
 初代の勘次郎は、宮大工としての術を気仙大工より学んだといいます。大和流の建築や彫刻、算術に秀でていました。代表作として花巻市宮野目の三嶽(みたけ)神社拝殿、盛岡市北山の願教寺本堂向拝の竜・蟇股(かえるまた)などがあります。この人の手がけた建物は百年の年月にも耐えるといわれ、明治28・9年ごろにあった地震の際にも、少しも動かなかったという話が伝えられています。
 二代目勘次郎は、宮大工としての匠と彫刻を初代の父より習得し、特に竜の細工では他に比するものがないといわれています。水沢市黒石寺の本堂、花巻市矢沢の胡四王神社拝殿、本町好地の熊野神社拝殿の竜など、各地に多くの名作を残しています。また、非凡な棟梁としての手腕と人望をもって多くの門人を育成しました。
土仏観世音堂宇 昇降の竜の彫り物  土仏観世音堂宇は、二間四面の総けやき造りで、初代の勘次郎が54歳、二代目勘次郎が28歳の時の建築といわれています。向拝(こうはい)柱、唐戸面、四方の欄間(らんま)、腰欄間などに彫刻を施し、中でも昇降の竜は優秀作といわれています。
 棟札によれば、最初の堂舎は元禄8年(1695年)、大興寺20世全智の代に建立されたとあります。天保3年(1832年)同寺26世徳宗の代にも建立が行われ、この時は再々建立と記録されています。長い年月の間に何回か建て替えが行われ、弘化3年(1846年)に現在の堂宇が建立されました。
 なお、ここに祀られている土仏観音は、高さが14センチほどの小仏像で、大興寺の開山であった梅山間本禅師の難を救ったことから身代わり観世音とも呼ばれています。まス、疫病退散にもご利益があるといわれ信仰を集めてきました。




土仏観音の由緒

 禅師が路上で3人の子どもが造った聖観音をくれるよう頼んだところ、「我らは三社明神で仏法を守るため子供の姿で現れたのだ」といい去っていきました。
 その後、主人が留守の民家に一泊していたところ、夜帰ってきた盗賊の主人に刺し殺され、屋外に埋められてしまいます。しかし、土仏観世が身代わりとなり、旅の僧は寝床で無事に眠っていました。盗賊は悔い改め僧となり、後に遠州に二ヶ寺を開創しましたとさ。

(要調査:高橋勘次郎親子、三嶽神社拝殿、盛岡市北山の願教寺本堂向拝の竜・蟇股、水沢市黒石寺の本堂、花巻市矢沢の胡四王神社拝殿、本町好地の熊野神社拝殿の竜)

御詠歌歌碑】  御詠歌歌碑

 境内には御詠歌歌碑が二つあります。

陸中八十八ヶ所三詣御詠歌 第一番(写真左)
「霊山の 釈迦のみまえに めぐりきて 萬の罪も きへうけにけり」

土仏観世 御詠歌(写真右)
「かずかずの ちかひはいろに あらわれて まへるわがみは やがて成佛」



早池峰山】  早池峰山

 県道から見える「早池峰山」。

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