土仏観世音堂宇(どぶつかんぜおんどう)
土仏観世音堂宇は、弘化3年(1846年)の建立といわれています。作者は、花巻市吹張の出身で、南部の名工といわれた高橋勘次郎親子です。高橋勘次郎家は初代から三代まで大工の棟梁でした。二代目は豊吉、三代目は豊太郎と称しました。
初代の勘次郎は、宮大工としての術を気仙大工より学んだといいます。大和流の建築や彫刻、算術に秀でていました。代表作として花巻市宮野目の三嶽(みたけ)神社拝殿、盛岡市北山の願教寺本堂向拝の竜・蟇股(かえるまた)などがあります。この人の手がけた建物は百年の年月にも耐えるといわれ、明治28・9年ごろにあった地震の際にも、少しも動かなかったという話が伝えられています。
二代目勘次郎は、宮大工としての匠と彫刻を初代の父より習得し、特に竜の細工では他に比するものがないといわれています。水沢市黒石寺の本堂、花巻市矢沢の胡四王神社拝殿、本町好地の熊野神社拝殿の竜など、各地に多くの名作を残しています。また、非凡な棟梁としての手腕と人望をもって多くの門人を育成しました。
土仏観世音堂宇は、二間四面の総けやき造りで、初代の勘次郎が54歳、二代目勘次郎が28歳の時の建築といわれています。向拝(こうはい)柱、唐戸面、四方の欄間(らんま)、腰欄間などに彫刻を施し、中でも昇降の竜は優秀作といわれています。
棟札によれば、最初の堂舎は元禄8年(1695年)、大興寺20世全智の代に建立されたとあります。天保3年(1832年)同寺26世徳宗の代にも建立が行われ、この時は再々建立と記録されています。長い年月の間に何回か建て替えが行われ、弘化3年(1846年)に現在の堂宇が建立されました。
なお、ここに祀られている土仏観音は、高さが14センチほどの小仏像で、大興寺の開山であった梅山間本禅師の難を救ったことから身代わり観世音とも呼ばれています。まス、疫病退散にもご利益があるといわれ信仰を集めてきました。
土仏観音の由緒
禅師が路上で3人の子どもが造った聖観音をくれるよう頼んだところ、「我らは三社明神で仏法を守るため子供の姿で現れたのだ」といい去っていきました。
その後、主人が留守の民家に一泊していたところ、夜帰ってきた盗賊の主人に刺し殺され、屋外に埋められてしまいます。しかし、土仏観世が身代わりとなり、旅の僧は寝床で無事に眠っていました。盗賊は悔い改め僧となり、後に遠州に二ヶ寺を開創しましたとさ。
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