台温泉の由来
其の発見の年代詳ならずと雖も、蓋し遺く元中年問(1384〜1392)、なるが如し、郷村誌に依れば、往古は北湯□の山中に湧出せしが、神巫如何なる仔細にや鶏卵を瀧の出□に投ぜしかば、此の谷移りてここに湧出せりという。
もと北湯口、湯本の地は温泉地帯なれども、今其の湧出を見ざるは、蓋し幾百年の間に於て其の湧出の箇所に変動あるが如し。伝うる所によれば猟夫雉子を逐ふて山深く分け入り渓谷に雲煙の立ち昇るを見恐れて逃げ帰りかくと邑人に告ぐ。将監(邑人小瀬川徳右衛門の祖なという)心に温泉なるを察し、単身山中に入り辛うじて温泉を発見し邑人と共に屡入浴せしという、今の大湯(雄子の湯ともいう・現冨手旅館)即ちこれなり。
其後正保の頃i1624〜1647)に至り浴場を設け浴客の多く来りしことは詔書に見ゆ所なり。
天保十年(1839)に至り浴場全焼し旧記烏有に帰せり。
又、寛文年間(1661〜1672)国守大膳太夫重信公此の温泉場に上御坂室(現さなぶり荘付近)、下御仮室(現楽知館付近)を建設し待医和田玄東を従え屡入浴せしことあり。
斯くの如く南部領内の温泉中最も早く開けたるは台にして、鶯宿これに次ぎ、其の他は享保以後(1716〜)なるが如し。
往時は7戸の外移住を許さざるの規約ありしも、天保年間より約解け、移住するもの漸く多く今は40余戸に及び、山閣水楼のきを連ね、1ヶ年の浴客数8万人を算するに至り頗る繁栄を極む。
大正8年(1919)8月中游編纂 湯本村史より記す
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