■■■ 宮沢賢治詩碑周辺 ■■■

詳細情報/宮沢賢治「風ニモマケズ」詩碑周辺、下ノ畑、羅須地人協会、おくら


同心屋敷 「横球体・ゆう」石像 桜地人館 「母」石碑 「風ニモマケズ」詩碑詳細 北隣/花巻市民プール周辺 南隣/奥州街道なごりの松、南城 西隣/諏訪、桜西部
※地図上の記号をクリックしてください。

【地図】
国道4号線と北上川に挟まれた住宅地の桜町の南側部分にあります。詩碑周辺の道路は狭く、駐車場は同心屋敷正面にしかありません。ここから歩いて行きましょう。北進の場合、国道4号線よりの進入路は狭く、少し南側のサンデーがある交差点より向かうことをお勧めします。
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【地図内地名、施設名】
桜町(さくらまち)、同心屋敷(どうしんやしき)、桜地人館(さくらちじんかん)、賢治桜詩碑(けんじさくらしひ)、JAいわて花巻南城支所(なんじょうししょ)、南城保育園(なんじょうほいくえん)
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【バス停】
1.賢治詩碑前、2.桜町2丁目
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【詳細情報】※別ページに移動します
宮沢賢治「風ニモマケズ」詩碑周辺、下ノ畑、羅須地人協会、おくら

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【桜地人館】記念館1
宮澤賢治の「雨ニモマケズ」詩碑の入り口に、賢治や高村光太郎と親交のあった父、佐藤隆房が佐藤郷志館を開館したのは、昭和四十九年(1974年)のことです。賢治の資料と光太郎、萬鉄五郎の作晶を展示し、その後、高村光太郎賞を受賞された舟越保武氏などの作晶を追加展示致しました。
平成六年四月より、展示の内容を一新しましたのを機に、羅須地人協会と地名の「桜」とにあやかって、館名を「桜地人館」と改称致しました。賢治の羅須地人協会趾、そして賢治詩碑を訪ねて来られる方々に見て頂きたいと念じております。出展数は僅かではありますが、賢治を慕い、「桜」の地を訪れた方々に何か良い思い出にと存じております。(後略)
※平成六年(1994年)四月 佐藤進(地人館パンフレットの挨拶より)

収蔵資料:宮澤賢治の作品、出版物、高村光太郎の書、萬鉄五郎の代表的絵画等170点、ほかに船越保武の作品。
開館:毎年3月15日から12月15日まで無休。午前9時〜午後4時。
休館:12月16日から3月14日まで冬期間休館。
入館料:350円
電話番号:0198-23-6591

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【母】石標1
「雪袴黒くうがちし うなゐの子瓜食みくれば 風澄めるよもの山はに うづまくや秋のしらくも その身こそ瓜も欲りせん 齢弱き母にしあれば 手すさびに紅き萱穂を つみつどへ野をよぎるなれ」
桜地人館の玄関横には「母」の碑があります。
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【横球体・ゆう】石像1
題名「横球体・ゆう」1890 本田貴侶
桜地人館の玄関前にある石像です。
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【店】
「注文の多い売店」が近くにありますが、開いているのを見たことがありません。前に飲料の自動販売機があるのみ。詳細はわかりません。
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【同心屋敷】建築物1
「天正十九年(1591)一族の九戸政実が南部氏に対して叛乱をおこした。北信愛(松斎)の意見を入れた南部信直は豊臣に訴え天下の大軍の力でこの乱を平定することができた。
この時鳥谷ヶ崎城(のちの花巻城)の守備にあたった浅野長吉(のちの長政)は、配下の一隊三十人を残してひきあげたが、この人達が花巻にとどまって南部氏に仕え花巻同心組となった。そして城内二の丸の馬場御門の下馬場(現在の鳥谷崎神社の南下の辺)に住居を与えられて住んだ。その後城内がせまくなったこともあり、延宝八年(1680)同心三十人は向小路(現桜町)の延長百間(1820m)の場所に移った。
間口五間(9.10m)横間口(5.46m)のところは全部同じつくりであり、東側、西側ともに十五軒づつで、南部氏から賜った同心の官舎ともいうべきものであった。しかしこれでは生活するのにせますぎるので、藩の許しを得て自弁で後部の北側に接続増築したところもある。床の間の浅い深いは、身分の関係があり、縁側は濡縁といって傾斜になっており雨だれに対する配慮がなされている。
昭和三十年(1955)ころまでは十軒近く残っていた「同心屋敷」も現在は二軒を残すのみとなってしまった。このため花巻市は文化財保護の見地から昭和五十四年、これらを譲り受け、同年市の有形文化財に指定し、北方約500米の旧所在地から現在地に移転復原したものである。」

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【旧今川家】江戸時代末期大橋理平治
旧今川家は、整理された架構法、せかい造り等から江戸時代末期の建築と思われる。まこの度の解体により鴨居に「慶応二年」と記されていたことから、この年正方形に近い平面形状に改築されたものと憶測される。保存状態が良く本屋棟に煙出し破風を設け屋根の形状は極めて複雑で意匠的にも工夫が凝らされ同心屋敷その発展経路を知る上で貴重な遺構である。なお安政五年(1858)に万丁目通城代支配地境絵図(向御組町付近図)によれば東側、北から三軒目大橋理平治とある屋敷がこれに当たる。昭和十五年頃から今川氏の住家となったものである。
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【旧平野家】江戸時代末期四戸民治
旧平野家は、旧奥州街道に沿って軒まわりはすべて「ばんじょう造り」で構造技法、意匠ともに素朴でありさらに屋根を兜造りとし、殆ど改造の手が入らず保存状態もまことに良好で、同心屋敷の典型的な遺構として貴重なものである。建築年代は不詳であるが、江戸時代末期(十九世紀初期)の建築と憶測される。なお安政五年(1858)の万丁目通城代支配地境絵図(向御組町付近図)によれば西側屋敷の四戸民治の家屋であり、明治四十五年頃から平野氏が居住するようになったものである。
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