■■■ 「雨ニモマケズ」詩碑 ■■■

周辺情報/同心屋敷、桜地人館


おくら 公園のフクロウ 歩道沿いのオブジェ 弥助橋跡 「下ノ畑」の案内板 「雨ニモマケズ」石標 「農民芸術概論網要」木標 「雨ニモマケズ」詩碑 「下ノ畑」の現風景 賢治詩碑周辺へ拡大
※地図上の記号をクリックしてください。

【地図】
桜町にある詩碑周辺には木標や案内板、当時の手洗いなどがあります。また、そこから北上川方向の東へ田んぼの中を約600mほど行くと「賢治自耕の地(下の畑)」があります。
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【地図内地名、施設名】
おくら、弥助橋跡(やすけばしあと)、桜町(さくらまち)公園、下ノ畑
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【周辺情報】※別ページに移動します
同心屋敷周辺、桜地人館

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【詩碑入り口】
右上写真の標識のように左に向かうと「風ニモマケズ」の詩碑・羅須地人館跡地、右が「賢治自耕の地(下の畑)」へ行くことができます。
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【雨ニモマケズ詩碑】石標1
「大正15年(1926)3月、花巻農学校を30歳で退職した賢治は、宮沢家別宅で独居自炊をしながら、羅須地人教会を設立して 理想の実現にいどんだ。ここがゆかりの場所である。
この詩碑は、没後3年目の昭和11年(1936)に教え子たちをはじめ多くの方々の協力によって建てられた。石巻産稲井石の 碑面には高村光太郎の揮毫で「雨ニモマケズ」の後半が刻まれている。さらに昭和21年(1946)に追刻の4文字を、光太郎が自ら碑面に書き込み完成した。」
賢治詩碑の第1号であり、碑の下には遺骨と経文が納められている。
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【宮沢賢治詩碑】石碑1
「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ」

今は宮野目に存在している羅須地人館が昔あった場所で、「雨ニモマケズ」の後半部分が高村光太郎の書で刻まれています。
まわりには、賢治が使った手洗い場があったり、「下ノ畑ニ居リマス」の黒板を模した案内板や「雨ニモマケズ」の手帳の一部が掲示板に展示してあります。
賢治の命日、9月21日には「賢治祭」がここで行われます。
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【「下ノ畑」の現風景】木標1
上の写真のように詩碑入り口の右手より「賢治自耕の地(下の畑)」へ行くことが出来ます。正面にはふくろうの案内板がありますので、これを目安にお進みください。田んぼの中の一本道をゆっくりと歩くと約600mほど東にあります。現在は水田地帯になってますが、北上川が見える田園風景は当時とあまり変わってはいないでしょう。今でも賢治がでてきそうです。

「本統の百姓を志した賢治は、大正十五年三月花巻農学校を三十歳で退職。桜の宮沢家別宅で独居自炊をしながら、開墾、農耕、創作し励み、羅須地人協会を創設して、理想の実現にいどんだ。当時このあたりは藪地だったが賢治は二反四畝歩(2380u)ほどを切り開いた。この沖積土の砂畑「下ノ畑」に、唐黍、トマト、白菜、玉葱などを植え、チューリップなどの花々を咲かせ、アスパラガスを畑のへりに植え緑の炎でふちどった。」

下の畑は、この広場から東南の方向(奥に北上川がのぞめる)にあったが、この辺一帯は耕地整理で畑から田んぼに変わり、当時の面影はありません。

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【掲示板】
羅須地人教会や教壇にたつ賢治の写真や「雨ニモマケズ」の原本の写しなど数種の資料が掲示されています。
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【案内板】
ここはかって花巻川口町下根子桜八景とよばれたところで、そのころ柾葺の二階家が立っていました。宮沢賢治は大正15年3月末に花巻農学校教論を依願退職し、4月にはこの家に移って独居自炊の農耕生活を始めました。
そして、その理想であった「羅須地人教会」を開設し、近在の農業青年に化学、土壌、肥料、農民芸術概論等を講義し、農村をまわっては稲作、肥料の指導相談をしました。
この碑は賢治がなくなった3年後の昭和11年に建立されました。碑文は賢治の死後に見つかった手帳に書かれていた「雨ニモマケズ」の詩が選ばれ高村光太郎の筆によるものです。詩碑の下には遺骨、経文が納められ、同年11月23日に建碑除幕されました。

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【農民芸術概論網要より】木標1
「風とゆききし雲からエネルギーをとれ」「われらに要るものは銀河を包む透明な意志巨きな力と熱である」
敷地内には農民芸術概論網要よりの一文が二本の木標書にかれています。
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【手洗い場】
「これらは賢治が使用した手水鉢やつるべ井戸の跡です。」
ここで賢治も農作業後の乾いた喉を潤したのでしょう。
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【おくら】建物5
この「おくら」は「羅須地人協会」が桜の地にあった頃、その庭にあった建物である。
1936(昭和11)年11月、羅須地人協会が宮野目に移築される時、これを譲りうけた近所の一青年のもとに、ひそかに保存されていた。最近その経緯が明らかになったことから、地元の有志が相はかり、羅須地人協会ゆかりの建物としてここに移築、一部手を加え復元した。
羅須地人協会で、賢治の教えを受けていた地元の青年たちは、当時この建物を「おくら」と呼んでいたという。呼び名の由来は賢治が名付けたものと言われている。
「おくら」は、肥料や農具などを入れておく物置と厠を兼ねていた。

軸は文語詩「種山ヶ原」の第一編三行と四行の「縄と菩提樹(マダカ)皮にうちよそひ 風とひかりにちかひせり」である。 (注)おほば菩提樹は東北・北海道に多く自生する落葉喬木で、しなのき科に属し、地方ではマダ若しくはマンダといっている。その皮をはいでみのが作られる。賢治は菩提樹(マダカ)皮で作った蓑に縄の帯をしめて風と光に精神を誓っている。
みの(地方ではケラという)

幹線道路から来ると民家である高い建物の裏側にあるため、気をつけないと見逃してしまいます。
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【歩道】オブジェ1
「同心屋敷」から「宮沢賢治詩碑」までの道路には宮沢賢治が自分の作品のモチーフにした場所やオブジェなどがならんでいます。徐々に賢治の風を感じていきます。
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【弥助橋】木標2
「弥助橋のかけ替え工事(大正十五年九月)には、賢治は地元の農民と共に汗を流し、さらに生家の山林から木を伐り出し橋材と提供するなど、進んで地元の人々に協力した。 賢治の作品「春と修羅・第三集」所収の「饗宴」の題材となった弥助橋は、かってこの沢にかかっていた五メートル余の農道の土橋であった。」
現在は写真のとおり橋も沢もありません。
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【桜町公園】オブジェ1
地元桜町の公共公園です。さすがにお膝元です。入り口にフクロウが鎮座しています。
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