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土沢城(土澤城、江刺城、十二鏑館)

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東和地図



より大きな地図で 萬鉄五郎記念美術館、土沢城址 を表示
■ページ内リンク(丸数字は下記現況図に示すもの)
土沢城(土澤城)遠望▽
土沢城(土澤城)古絵図▽
土沢城(土澤城)現況地図▽
(1)大手橋跡▽
(2)大手桜丸跡▽
(3)大手道跡▽
(4)西館跡▽
(5)中館跡▽
(6)大手門跡▽
(7)御本館跡▽
(8)東館跡▽
 
(9)郭跡▽
(10)〜(12)堀跡▽
(13)櫻丸神社▽
(14)於岩稲荷▽
(15)平和塔▽
(16)萬鉄五郎記念碑▽
(17)館跡を下から見上げた風景▽
(18)田屋ヶ井戸 東和町指定文化財史跡▽
(19)心月の泉(岡田井戸)▽
(20)土沢城と城内小路▽


土沢城(土澤城)遠望】  土沢城(土澤城)遠望

 土沢は北東に土沢城址のある舘山(館山)公園を背景に、北西(花巻方面)から南東(遠野方面)への細長い町を形成しています。(上記写真参照、矢印部分が御本館跡付近)
  その舘山(館山)は現在公園となっていますが、南部氏が仙台藩との藩境の守備を固めるために築いた土沢城の跡地であり、館跡や堀跡など全体に往時の遺構が残されています。
 専用駐車場はありませんし、周辺道路は極端に狭いので、駐車は萬鉄五郎記念館横の八丁土蔵前を利用してください。
 ※画像矢印部分が本丸附近。


土沢城

 近世、江刺氏居城の山城。御本館、中館、西館、東館、などからなり、堀の水は稚部川から導入されたという。
 初代城主江刺長作隆直は、旧葛西氏家臣で、南部落新堀居城後、伊達藩との落境守備のためこの地に転封、築城は1612年(慶長17年)の春、廃城は1670年(寛文10年)という。
 土沢城の名称は、鏑八幡神社わきの谷川を、古来から土沢と呼称していたので、それに因った城名とされている。
 土沢城の縄張(企画設計)は盛岡城や三戸城にも関係したと云われる盛岡藩の野田内匠頭直盛であったとの伝えがある。

城郭の規模(当時の1間は約1.91米と推定される)
御本館 東西34間、南北35間 64.95 10.28:10.58
中館 東西9間、南北18間
西館 東西34間、南北14間
無名郭 東西12間、南北15間
御堀 幅6間、深1文5寸

城内屋敷
侍屋敷 表14間、奥行21間
足軽屋敷 表7間、奥行21間



土沢城(土澤城)古絵図説明板】 
土沢城地図/YahooMaps
土沢城(土澤城)古絵図

 この絵図は、寛永年間(1620年代)の城郭のありさまを記録したもので、当時の侍屋敷や町屋敷の様子が偲ばれる。
 現在、江刺家に伝わる絵図を原寸大に転写したものである。

※数字は下記現在の地図の数字と同じ位置を示しています。この絵図は「大手橋跡」にあります。


土沢城(土澤城)現況地図】  土沢城(土澤城)現況地図

 この地図は土沢城周辺の現況と上記古絵図を比較したものです。灰色線は現在の道路、茶色線は現在の遊歩道、黒線は上記古絵図にもある道、黄色数字は現在の史跡の位置、水色数字は後年の記念碑等を表しています。
※ただし、管理者個人の憶測・推理・想像による部分がかなりあります。ご了承ください。





(1)大手橋跡】  大手橋跡

 城跡西入口から約120m東へ進むと、「大手橋跡」があります。現在、橋はありません。水堀が少しだけ残っています。ここには上記古絵図の書いてある案内板があります。ここから左手には「堀跡」西側入口、右手には後年造られたであろう「参道」、正面には「大手桜丸跡」への鳥居と階段とつづいていきます。(写真は「堀跡」西入口より撮影)



(2)大手桜丸跡】  大手桜丸跡

 大手橋跡から東へ少しばかり階段を上がると、ちょっとした広場があります。ここが「大手橋跡」です。山側には「櫻丸神社」があり、見晴らしのいい崖側には東屋があります。その「櫻丸神社」の右側に「館跡」につながる「大手道跡」への進入口があります。(写真は「大手道跡」より撮影)





大手桜丸跡から御本館方向
 「大手桜丸跡」から「御本館」方向の写真です。谷を間に向こう側が「館跡」であることがわかります。(写真は「大手桜丸跡」より撮影)

大手桜丸跡東屋から神社方向
 「大手桜丸跡」から「櫻丸神社跡」と「大手道跡」方向の写真です。(写真は「大手桜丸跡」東屋より撮影)


(3)大手道跡】  大手道跡

 「櫻丸神社」の横を北に進む道が「大手道跡」になります。ここからは少し林の中を通る上り坂。右手は急な下り斜面になります。

大手道跡から
 「大手道跡」から高台の「郭跡」と下の道路を望んでいます。南側が急な斜面になっているのがわかります。


(4)西館跡】  西館跡

 「大手道跡」を上って左(西)へ進むと開けた「西館跡」となります。往時、ここには東西34間、南北14間の城郭があったとされています。現在は「大手道跡」には杉林、裏手は山があり見通しは良くありません。

西館跡から中舘跡方向
 「西館跡」から「中舘跡・大手門跡」方向を望んでいます。若干の高低差があり、「西館」部分が少し低くなっています。


(5)中館跡】  中館跡

 「西館跡」から「中舘跡・大手門跡・御本館跡」は一段高くなっています。往時、この「中舘跡」には東西9間、南北18間の城郭があったとされています。


(6)大手門跡】  大手門跡

 「大手道跡」を上って右(東)へ進むと「大手門跡」となります。「大手門跡」を過ぎると急に開け、左手(西)が「中舘跡」、右手(東)が「御本舘跡」となります。


(7)御本館跡】  御本館跡

 この山城の上面の開けた部分には、西から「中舘跡・大手門跡・御本館跡」があります。その東端には東西34間、南北35間の城郭があったとされています。ここからは見晴らしが良く、城下が一望出来ます。

西館跡から中舘跡方向

 「御本館跡」から現在の東和町を望んでいます。写真では、右手前に「大手桜丸跡」の東屋が見えます。(写真は「御本館跡」崖側より撮影)


(8)東館跡】  東館跡

 「御本館跡」の南側、一段下がった平場が「東館跡」になり、見晴らしのいいここには東屋があります。「御本館跡」からは階段を下がって行くことができます。

西館跡から中舘跡方向

 「東館跡」の東屋から「御本館跡」を見上げています。結構な段差があるのがわかります。


(9)郭跡】  郭跡

 「東館跡」の南側、さらに一段下がった部分が「郭跡」になります。「東館跡」らは階段を下がって、一端一般道路に出て、さらに別の階段を上ることで行くことができます。

西館跡から中舘跡方向
 「郭跡」から「大手桜丸跡」を望んでいます。現在、この下には一般民家があります。往時は侍屋敷だったことでしょう(憶測)。(写真は「郭跡」谷側より撮影)


(10)〜(12)堀跡】  堀跡I

 「中舘跡・大手門跡・御本館跡」のある高台の北側には、城郭を取り囲むように「堀跡」が造られています。「堀跡」の東側入口は東館跡下の一般道路から進入していくこととなります。ここから西入口まで半周続いています。

堀跡J

 「堀跡」の真ん中部分です。北側には古絵図には畑が描かれていますが、現在も畑で作物が耕作されています。

堀跡K

 「堀跡」の西側入口は「大手橋跡」の水堀横にあります。ここから東入口まで半周続いています。



(13)櫻丸神社】  櫻丸神社

 「大手桜丸跡」の北側に鳥居があり、ちょっとばかりの参道を上ると「櫻丸神社」があります。ここは古絵図にも載っており、古くからの神社であることがうかがえます。

櫻丸神社から大手橋跡方向
 「櫻丸神社」から「大手橋跡」を望んでいます。写真左下の鳥居は、上の写真のものとは異なります。「大手橋跡」からの階段にある鳥居です。その右にあるのが古地図が掲載されている案内板。(写真は「桜丸神社」より撮影)


(14)於岩稲荷】  於岩稲荷

 「大手道跡」の西側には古絵図に描かれていない「於岩稲荷」があります。おそらく後年に造られたものでしょう。
 「於岩稲荷」というと、東京四谷の「お岩さん」が有名ですが、こことの関係は定かではありません。四谷の「於岩稲荷」は、福を招き、商売繁盛のご利益があり、芸能の成功、興業の成功にはことさら霊験あらたかだとか。ここも同じ霊験があると興味深いのですが。
 よく見ると、鳥居の横に石碑を発見。漢字以外はカタカナのなので、時間をかけてじっくりと読んでみると下のような内容でした。結局、ここは東京四谷から分神した於岩稲荷を祀っているらしい。ということは、同じように霊験あらたかでいいはず。もう少し有名でもいいような気がするのだが。

あけぼのに向く枝くらし月の梅 沙山

 沙山の生涯は浄光寺境内に建立しある「梅之本三世沙山の碑」に刻みある通りなし
 沙山江戸にて刻苦勉強中四ツ家於岩稲荷を信仰するに至り、その加護を得て出世の道開かるるに依り明治二年に於岩稲荷を土沢に分神遷座し浜田家代々之を崇敬せり。
 昭和二年、浜田源六江刺城址の一角を買い求め社殿を現在地に遷し昭和三年八将神講の要望により、八将神碑外を境内に迎え周囲に植林を行う。
 尚富て高橋伊勢次郎、小原無学両氏より建碑の勧告を受け源六之を諾せり。漸くにして建碑を実現す。
昭和60年4月28日 浜田源六 明治2年浜田と改姓

於岩稲荷



(15)平和塔】  平和塔

 西側入口より80m東へ進んだ部分に左への階段があります。そこを上ると小さめの平地があり、この「平和塔」が鎮座しております。
 平和塔建設の趣意
 私の家庭が 町が 国が 平和であることを願い そして世界永遠の平和を祈念してやまない

平和塔

 「平和塔」の高台から東和町内を眺める。「萬鉄五郎記念美術館」の背面が見えますね。


(16)萬鉄五郎萬鉄五郎記念碑】  萬鉄五郎萬鉄五郎記念碑

 西側入口部分に左への階段があります。そこを上ると小さめの平地があり、この「萬鉄五郎萬鉄五郎記念碑」が配置されています。
画家は明日を憂へてはいけない 今日、今、最も忠実でなければいけない
萬鐵五郎

館跡西入口

 「館跡」へ行くことのできる「西入口」からの風景です。右側が急な崖になっていることが見て取れます。


(17)館跡を下から見上げた風景】  館跡を下から見上げた風景
 「館跡」を下の道路から見上げてみました。結構急勾配な斜面です。これじゃこっち側から城を攻め入ることは不可能ですね。



(18)田屋ヶ井戸 東和町指定文化財史跡】  田屋ヶ井戸 東和町指定文化財史跡

 地図番号S城内小路の東端に古絵図にも描かれている「田屋ヶ井戸」が現在でも残っています。しかし、現在は水飲み場はなく、防火用水として利用されているようです。可能であれば水飲み場としての利用ができるよう配慮を希望します。
土沢館を中心とする侍屋敷町家の最も重要な飲料水供給地として使用されてきた。



(19)心月の泉(岡田井戸)】  心月の泉(岡田井戸)

 西入口から西へ約130mほどの民家裏側に、古絵図に描かれていませんが、現在「心月の泉(岡田井戸)」があります。現在は道路端に水飲み場があり、実際利用できるようです。源泉は少し上った上にあります。

岡田井戸について

 岡田井戸は、田屋ヶ井戸とともに。住民の生活用水として、また心を癒す霊水として古くから大切に使われてきた町の名水である。
 舘山(館山)水脈からなる水源地であり、水質が良く水量も多い。干魃でもこんこんと湧きでる泉水として喜ばれ語り継がれてきた井戸である。町内には更に駅前の信泉寺下の井戸や中町・下町にはつるべ井戸を造り生活を豊かにした。朝夕の水汲み行列と順番を待つ間の井戸端会議、大人と子どもの天秤水かつぎの賑わいは忘れられない懐かしい思い出であり、風物として語り伝えたいものである。
 岡田井戸から溢れる清流や渕に大型の「サンショウウオ」が顔をにゅっきりとつきだして幼な子がびっくり泣きだし情景を思い起こし、懐かしいことである。大正から昭和初期にかけての自然は、豊で生き生きしたすばらしい環境であったことを伝えたい。名水は文化を育んできたことを!
2002.3(及川榮二、記)



(20)土沢城と城内小路】  土沢城と城内小路


土沢城と城内小路

 慶長17年(1612)の春、南部藩主利直公の代に伊達藩との国境線守備固めとしての命を受けた江刺家長作隆直が土沢城主初代(2000石)となった。二代目に勘解由春隆、三代目に勘兵衛長芳が継いだ。
 城郭は前方に猿ヶ石川、後方には釜川と丘陵を配した台地である舘山(館山)に御本館、中舘、西館、東舘、無名郭、大手桜丸等の城郭を築き警備に当たった。城内中段を侍屋敷とし、その下に足軽屋敷、外側には町民屋敷が並び建てられた。正保4年(1647)三代目長芳の代に上町より発生した火災より屋形は残らず類焼した。
 その後まもなく再建されたが、四代目市佐衛門隆真の代、寛文10年(1670)に南部藩の総検知により土沢城が廃城となった。その後、安永6年(1777)2月16日の土沢大火災によって城内小路、御田屋敷、浄光寺等みな焼失した。江刺家の墓地は鳩峯山浄光寺にあり、菩提寺として祀られている。
 由緒あるこの地を訪ねて、城内小路から舘山(館山)へ、そして城下町をゆっくりと散策することにより、当時の風物が幻影となり見え隠れする情緒を味わうことのできる小路である。

2002.3(及川榮二、記)



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