菊池正古(まさふる)「号 良斎(りょうさい)」国学者・歌人
文化6年(1809年)9月6日、十二ケ村(現在の東和町土沢)に医師立腹(りっけい)「正麻呂」の子として生まれた。幼少から漢学・国学・医学を父より教えられ、特に国学を志望した。
19歳から従兄の家で寺子屋の師匠をしていたが、22歳の時、国学を学ぶため江戸に赴き平田塾へ入門・国学の研究に没頭し、のち同塾の塾頭となった。
学成って24歳で帰郷、その年9月に藤本冨(とみ)と結婚する。
帰郷後、医業に励み、多くの人々を救ったが、かたわらでは国学の研究も続け著述に取り組んだ。
また、近在に寺子屋も営み、寺子約100人を擁したが、当時としては藩内でも最大の規模であったと云う。教授科目は、読み書き以外に謡曲や裁縫・機織も教えた。
門人には、安俵の及川良寿(りょうじゅ)・谷内の小原実風(さねかぜ)・晴山の横川政業(まさなり)・成島の前田信之(のぶゆき)・土沢の佐々木忠義(ただよし)など秀才が多い。
正古は優れた歌人でもあり、57歳のとき南部利剛(としひさ)公が成島毘沙門堂へ参向した折、正古の短歌をご覧になり、その実力を高く評価。その後、作人館の助教授に就任した。
>慶応3年2月13日、59歳で病死するまて著述活動は続き、著書13種70余巻を著すなとし、本町の先哲としてすばらしい実績を残した。
|