毒沢城跡の由来
毒沢城跡は和賀氏の重臣毒沢氏が築いた城です。
毒沢氏は「源姓和賀家系図」によれば和賀氏18代政義の三男盛義が貞治5年(1366)濁沢(毒沢)に200余町を賜って移り住んだとあリます。それ以後毒沢氏の城として重要拠点となっています。
天正18年豊臣秀吉の奥羽仕置きにあい毒沢氏は追放されました。毒沢氏は224年問この城を拠点としました。この城は毒沢と中内地区の間に走る丘陵地の尾根頂部を削り平地を作り出し主郭としておリ、下には階段状の郭を造成しています。
この頂部から突き出している三方向の尾根に副郭を構えています。この城の構えは山城で同心円状梯郭式と言われるものです。
主郭は比較的狭く東西に二段となつているのが特徴です。常時毒沢氏が居住していた城ではなく、非常時における防御の城と思われます。
東和町での中世の城館跡として活用時のまま残されている倉沢城跡とともに貴重な城館跡といえます。
また、調査によって貞治5年以前にさかのぼる遺構・遺物が発見され、毒沢氏以前の施設があったことが考えられます。
追放された毒沢義森は慶長5年(1600)和賀氏一撲に加わり敗れ、慶長6年(1601)主君忠親と共に仙台で自刃し、墓は仙台国分尼寺にあリます。義森の孫の勝子姫は伊達政宗の側室となり、その子宗勝は一関三万石の藩主となつています。
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