前九年の役(1051〜1062)
奥六郡(胆沢、江刺、和賀、稗貫、志和、岩手郡)の豪族阿倍氏は、この地に産する馬と砂金をうしろだてに、胆沢郡衣川に本拠をかまえ、十余の城柵に一族を配してその勢力は強大であった。
これを国司として牽制することを源頼義が任命された。
阿倍氏は反抗する意志はなく衝突をさけようと努めた。ところが頼義の任期が切れる寸前で紛争がおきた。
原因は阿倍貞任が、頼義の武将の妹に結婚を申し込んだところ、貞任が蝦夷の子孫だという理由でことわられたことにあった。
戦いは、長い年月にわたり一進一退を続けた。しかし、1062年頼義が出羽の豪族清原氏の応援を得たことにより一挙に終局をむかえることとなり、貞任は13才の我が子千代童子とともに戦死した。
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