種山ヶ原
宮沢賢治作品における重要な原風景のひとつが種山ヶ原である。大正六年、賢治は江刺郡土性調査のために、はじめてこの隆起準平原を訪れる。以来、種山は短歌・詩・童話・劇・歌曲などで扱われ、他作品のモチーフともなり、自然と人間の交感をとおして賢治独自の世界が開かれた。
詩「種山ヶ原」は、大正14年の作品である。この詩は、先駆形AとBをもち、その発展形態等複雑である。ここでは「ちくま文庫 宮沢賢治全集I」に拠った。
自然の律動と変幻自在に流動する種山ヶ原に、宮沢賢治も変化することをたのしんでいるかのように感じられる。
先駆形Aの「雲が風と水と空虚と光と核の塵ととでなりたつとき/同じ水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され/じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部まで/それをわたくしが感じることは/水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」は、賢治が自然そのものとなる装置こそが種山ヶ原であることを示唆していよう。
詩碑に用いられた巨石は、石英斑岩である。住田町が舞台と考えられている短編「泉ある家」の冒頭に、「これが今日のおしまいだらう、と云ひながら斉田は青じろい薄明の流れはじめた県道に立って崖に露出した石英斑岩から一かけの標本をとって新聞紙に包んだ。」とある。
詩碑建立の熱い思いのなかで、まさに露出していた石英斑岩が町内で発掘されたことは、この日のために土中に眠り続け、ここにいたって詩碑「種山ヶ原」たなり、賢治の世界の体現にめざめたことを告げたともいえよう。
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