一里塚の由来
南部家では、代々志和稲荷神社への信仰が厚く、領民の五穀豊穣を願い参詣でしたと伝えられている。
三十八代藩主利済(としただ)公の時代に、志和郡の百姓23,000人を動員し、新しく通した街道が、現在に伝わる稲荷街道である。天保五年(1834)秋に着工し、翌年五月に完成したと記されるこの街道には、盛岡城より現在の稲荷までの間に四ヵ所の一里塚が存在したという。
当時の松本村の北側にあたるとされた一里塚が、この塚である。
なおこの一里塚は、唱和30年頃残念にも一度破壊されたが、水分歴史愛好家が、後世に伝えるため復元したものである。
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