戸塚森と学校林(学林)
明治後期の学制では、学校運営に要する経費は、教育を受ける者が負担することを原則とし、授業料を徴収し不足の時は寄附金や村費から補足する事ができるとされていた。
その後、小学校令が改正され義務教育期間が6年と就学年限が延長し校舎の増築等施設の充実、教員の雇い入れ等に要する村費補助が大幅に増加し、新堀村の財政運営は困難をきわめた。
この時にあたり、村政を担う関係者が戸塚森の国有林21町余りを払い下げ、学校の基本財産とし、それから得る収益によって学校教育費の増加に備え、さらに資力がないため上級学校に進学できない者のための育英事業を強化するとした極めて雄大な構想をうちたてた。
明治44年山林の払い下げも順調に行われ、加えて長年にわたって村民の手による植林がおこなわれ、立派な学校林が造成された。
この事業は先人たちが郷土愛に燃え、教育への強い関心のもとに実を結んだものであり、大正15年村民がこの偉業を褒め讃え、これを後世に伝えるぺく記念碑を建立したものである。
この学校林は後の町村合併の際には、新堀村基本財産として新生「石島谷町」に引き継がれることになった。
その後、町有林として植林と保育事業がおこなわれたが、雄大な自然にふれる場として昭和42年町単独事業で造林地内にバンガローを設置、続いて輪伐が行われた造林跡地は町民のやすらぎの場、憩いの場、野外活動の拠点とするため、昭和56年から各種事業を導入して次々と整備をすることになった。
施設整備に当たっては、自然のなかに親しみ、心のやすらぎとふれあいが得られる森づくり、また花と緑、各種交流による地域活性化や桜の植栽により桜の花を愛でる町民の憩いの森、木とのふれあい公園「戸塚森森林公園」として整備を行い、今日では町民はもちろん県内外からの利用者も多く訪れている。
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