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花巻城跡

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花巻地図


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花巻城本丸跡▽
御台所御門跡・力士墓碑▽
二ノ丸跡▽
三之丸跡▽
西御門▽
早坂▽
御堀・御堀跡▽
円城寺門・時鐘▽
馬場先御門・東御門跡▽
花巻城揆奮場・中御門跡▽


花巻城本丸跡】 
地図/YahooMaps
現在の本丸跡は児童公園になっており、遊歩道が一周まわっています。春には桜、秋には紅葉と市民の憩いの場となっています。城跡らしく南堀側には土累が廻っており、所々に井戸跡や武具蔵の跡などの標柱があります。

花巻城本丸跡

本丸

花巻城は、その前身を鳥谷ヶ崎城といい、稗貫地方を治めた稗貫氏の居城でした。

1590年の豊臣秀吉による奥州仕置きのおり、稗貫氏・和賀氏は領地を没収され、この地は南部氏の領有となり、家臣の北条愛が初代の城代として、和賀・稗貫の両郡を統治しました。

その本丸には藩主が宿泊する御殿と城代以下の役人が詰める御用の間がありました。



御台所御門跡・力士墓碑】 
御台所御門跡地図/YahooMaps 力士墓碑地図/YahooMaps
現在この地には西御門が復元されていますが、それ以外に往時をしのぶものは初代二所ノ関軍右ェ門墓碑(右画像)があるのみ。しかし、所々にある標柱や土累が歴史を物語ります。

御台所御門跡・力士墓碑

御台所御門(左画像)

1600年におきた関ヶ原の戦いに南部氏が出陣している手透きの間に、和賀氏は伊達氏の援助をうけ、花巻城を襲撃しました(花巻城の夜討ち)。

三之丸・二之丸は敗れ、本丸の御台所御門にて攻防戦が続きました。お城を守ったのは侍のほか、小姓の新渡戸伝助、仲居の浦子、談義所の松なども活躍しました。翌朝に主力と援軍が到着し、事なきを得ました。

この出来事が南部氏にとって発展する礎となったようです。
初代二所ノ関軍右ェ門墓碑(右画像)

南部侯お抱えの力士で、シコ名を滝ノ上音蔵、さらに錦木塚右ェ門と改め、文化三年(1806)最高位大関となりました。その後二所ノ関初代年寄となった豪の力士です。



二ノ丸跡】 
地図/YahooMaps
二ノ丸跡は現在、花巻市立花巻小学校の校庭と武徳殿になっておます。当時、武徳殿には御囲穀御蔵が、小学校校舎には郡代屋敷があたようです。御囲穀御蔵と城代屋敷の間には薬研堀が延長され二分されていたことが、絵図からも見て取れますが、現在はその痕跡は全くありません。

二之丸跡

二之丸

藩内屈指の穀物地帯である八通り(稗貫・和賀二郡の北上川筋にある8地区)8万石の年貢を収納する土蔵がありました。



三之丸跡】  
地図/YahooMaps
現在の三之丸跡には住宅が並んでいます。諸士町である館小路には現在でも数件の武家屋敷が残っています。ただし、現住の民家であるため、路地よりの見学以外はできません。

三之丸跡

三之丸

武家屋敷が軒を連ねていました。武家屋敷は他に、中小路や御田屋小路など城南にもあり、奥州街道沿いには吹張御組、向御組など下級武士の屋敷が配されていました。



西御門】 
地図/YahooMaps
西御門は花巻開町400年を記念して、平成7年に再建されました。門の形式は「桝型脇戸櫓門」と呼ばれ、木造2階建てとなっています。また、門の左右下手には往時の石垣が残っています。

西御門



早坂】 
地図/YahooMaps
花巻城への正門である早坂御門や早坂稲荷のあった早坂は現在、小学校への北入口通学路になっています。従って、開校時間中はこの道路への自動車の通行は出来ません。春には両側に桜が咲き、四日町方面の町が遠方に見える明美な場所でもあります。

早坂

早坂御門

花巻城の二ノ丸に建立された楼門で、参勤交代などのときの一日市・四日町への往来の行動の門でありました。

門の近くには早坂稲荷社、また坂の下には西御蔵・舟渡場、また八幡寺寺林通り代官所などがあり、城下の一日市町の入口には、他国の大名・幕府役人などの公賓が宿泊した東・西御仮屋などがあったようです。

なお、「広隆寺日記」によれば、築城創期には盛岡城への往還、大手口の御門であったと伝えられています。



御堀・御堀跡】 
地図/YahooMaps
本丸と二之丸との間には三つの堀がありました。西から鍵御堀、御堀、御囲御堀といい、現存しているのは鍵御堀と御堀の一部です。御堀はほぼ半分が残っており、現在は野鳥の休憩地となっています。また、本丸堀側には土累が巡らせており、現在もその形はほぼ当時のままのようです。

御堀

二之丸、三之丸周辺にも堀や空堀がありました。しかし、現在はほとんど埋め立てられ、市役所庁舎や市職員の駐車場、花巻病院駐車場になっています。その高さが回りより低くなっているため、少なからず堀であることが想像できます。

御堀跡



円城寺門・時鐘】  
円城寺門地図/YahooMaps 時鐘地図/YahooMaps
旧花巻城唯一の現存建物であるこの円城寺門は、現在は鳥谷ヶ崎神社参道をのぼった、正面入口にあります。そして、かつての大手門跡(現市役所前)にある花巻城時鐘は現在も定時に鐘の音を響かせています。

円城寺門・時鐘

円城寺門(左画像)

南部利直公が慶長19年(1614)二子城(現北上市二子町)の追手門を引き上げて花巻城の搦手円城寺坂に建てたものです。

北上平野の戦乱—史説 和賀一族をめぐる悲劇 (1970年) [古書] 紫桃 正隆【中古】
花巻城時鐘

往時には御台所御門南側、二之丸の一角にありました。正保3年(1679)南部重直公の時代に盛岡城時鐘として作られましたが、小さすぎて城下に響かず、花巻城に移されました。



馬場先御門・東御門跡】  
馬場先御門地図/YahooMaps 東御門地図/YahooMaps
現在、鳥谷ヶ崎神社の北側にあたる馬場先御門跡地(右画像)は市道(旧軽便鉄道跡)になっており、臼堀も埋め立てられて住宅が数件建っています。当時はここからさがった付近に乗馬の練習を行う馬場があったようです。

東御門跡地は小学校や武徳殿への入口になっており、武徳殿の裏手には旧家の屋敷になっているようです。この塀も往時の遺産ではなく、その民家のもののようです。

馬場先御門・東御門跡



花巻城揆奮場・中御門跡】  
地図/YahooMaps
花巻城揆奮場は現在一般の民家が建ち並んでおり、ほとんどその面影はありません。中御門跡は小学校への進入口となっており、ここから先には開校中は自動車での進入はできません。

花巻城揆奮場・中御門跡

中御門(左画像)

花巻城二之丸の正門で、この北側には亀堀、南側には深い薬研堀(やげんぼり)があった。二之丸には、稗貫・和賀二郡の行政を執務する御役屋(現在の小学校付近)があった。また、ここには南御蔵・御厩・御作事奉公役屋・鐘堂・煙硝蔵などがありました。
花巻城揆奮場(右画像)

盛岡藩花巻御給人の松川滋安が花巻城士の文武両道の素養を高めるため、安政3年(1856)藩学校の建設に着手し、「書経」にある「文を奨め武を奮う」という言葉から、藩主南部利剛によって「揆奮場」と命名された。文久2年(1862)正式に藩学校となり、明治維新前後の士卒の教育に多大の貢献をしています。



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